はじめに

天明5年(1785年)に刊行された『万宝料理秘密箱 卵百珍』は、卵料理だけを103種も収録した専門書である。『豆腐百珍』の大ヒットに続いて出版された「百珍もの」の一つだが、卵という単一素材でこれほどの変化を生み出した先人の技に、料理人として驚嘆せずにはいられない。

卵料理の分類と構成

本書は『豆腐百珍』と同様に、「尋常品」「通品」「奇品」「妙品」「絶品」の等級で料理を分類している。尋常品にはゆで卵や卵焼きといった基本が並び、等級が上がるにつれて技巧的な料理が増える。たとえば「黄身返し」は、ゆで卵の黄身と白身を反転させる技法で、現代でも再現が難しい。卵の凝固温度の違いを利用した繊細な仕事であり、江戸の料理人の科学的な観察眼に感心する。

現代に通じる技法

「卵素麺」は、溶き卵を細く熱湯に流して麺状に仕立てる料理で、現代の錦糸卵の原型ともいえる。また「松風卵」は卵にすり身や味噌を混ぜて焼く料理で、今日の伊達巻や松風焼きとほぼ同じ発想だ。厨房で日常的に作っている料理の多くが、実は江戸時代にすでに確立されていたことに気づかされる。蒸す・焼く・茹でる・揚げるという加熱法を組み合わせて変化をつける原理は、プロの現場でも基本中の基本である。

調味の特徴

味付けは醤油と砂糖の組み合わせが多いが、味噌、酢、山椒、生姜なども頻繁に使われる。甘みを効かせた卵料理が多い点は、当時の嗜好を反映しているのだろう。現代の出汁巻き卵も関西では甘さを抑え、関東では甘めに仕上げるが、この地域差の原型がすでにこの時代にあった可能性がある。

おわりに

卵という身近な食材一つで百を超える料理を考案した江戸の食文化の底力には、現役の料理人として脱帽する。素材を知り尽くし、あらゆる技法を試すという姿勢は、時代を超えた料理の本質だ。『卵百珍』は、創造力の源泉がどこにあるかを教えてくれる一冊である。