はじめに

正徳3年(1713年)、福岡藩の儒学者・貝原益軒が83歳で著した『養生訓』は、江戸時代最大の健康指南書である。全8巻のうち、飲食に関する記述は全体の約3分の1を占める。益軒は「養生の術、先ず食を慎むべし」と述べ、食事を健康の根本に据えた。料理人としてこの書を読むと、現代の栄養学や食事療法に通じる洞察が随所に見られ、その先見性に驚かされる。

腹八分目の哲学

『養生訓』で最も知られる教えは「腹八分目」だろう。益軒は「飲食は飢えを助くるためなり、口腹の欲をほしいままにすべからず」と説き、満腹まで食べることを戒めている。さらに「淡きもの」を好み、濃い味付けを避けるべきだとも述べている。料理人の立場からすると、これは素材の味を活かす日本料理の基本原則と一致する。過度な調味は素材の持ち味を殺す。益軒の養生論は、健康と美味が矛盾しないことを示しているのだ。また、食事の回数や時間帯にも言及しており、朝は軽く夜は控えめにという指針は現代の時間栄養学の知見とも符合する。

食べ合わせの知恵

益軒は食べ合わせについても詳細に論じている。「生ものと冷たきものを共に食すべからず」という教えは、刺身に温かい味噌汁を合わせる和食の構成と合致する。また「酒を飲みて後、熱き茶を飲むべからず」など、現代の消化生理学から見ても合理的な指摘が多い。私が献立を組む際に意識する温冷のバランス、食感の変化といった要素は、益軒がすでに体系化していたことになる。経験則の積み重ねが、科学的検証に先行していた好例である。

おわりに

『養生訓』は300年前の書でありながら、その食の教えは現代でも色褪せない。料理人として特に共感するのは、美味しいものを適量食べるという、当たり前のようで実践が難しい教えだ。飽食の時代にこそ、益軒の「慎み」の思想は輝きを増す。健康のための食と、喜びとしての食を両立させること。それが料理人の使命でもあると、この古典は思い出させてくれる。